起業前1話:バブル時代、ある目的のために給料で「銀座証券レディ」の道を選ぶ

高校時代、正真正銘のビリギャルだった私は、エスカレーター式の付属中高に行ったにもかかわらず、成績が悪くて私は大学にいけなくなる寸前だった。最後の最後に猛勉強をしてなんとかギリギリ短大に入った。昭和一桁生まれの父は「女は大学に行くな。料理学校にいけ。そして金持ちの男を見つけろ」と小さいころから私に言い聞かせていた。

だから私は、絶対に「大学に行きたい」と子供の頃から思っていた。それもアメリカの大学に。早く家を出たかったし、いつか父の目前で、父が理解できない言語で楽しそうにおしゃべりしてやろうと思っていた。

父のもう一つの口癖は「俺は早稲田の特待生だったんだ。無学のお前らは黙っていろ」と母や私によく言っていたので、世界ランキングで早稲田よりランクが高くて、頭悪くても入れる大学はないか、真剣に探していた。

さらに自分で働いて経済的に自立したい、そして相手の経済力に頼らず「純愛した相手と結婚したい」と本気で思っていた。

短大生活は短く、翌年には就職活動が始まる。バブル期の女子大はボディコンにワンレンという友人たちも、軒並み紺のリクルートスーツになっていた。私は就職するつもりはなく、父に留学したいというと「ダメだ」という一言。

だったら自分で稼いで行くだけだ。父がバイトを禁止していたので、稼ぐ大変さも知らない私は、就職活動にみんなより一歩遅れて就職活動を始めた。留学資金を貯めるために、一番給料の良い会社を探して、バブル真っ盛りの時代の三大証券、野村・大和・日興證券の全てを受けた。

野村と大和は、面接前の成績表提出で落ちた。学生時代、勉強は良い成績をとっておくべきだったと後悔しても遅い。そんな中、日興證券だけは面接が先だった。集団面接の日、面接官はみんなに質問した。

「証券会社の仕事は大変ですよ。ご両親や周囲の方々に反対されませんでしたか?」

緊張感が半端じゃない。そんな中、最初の学生が答える。

「いえ、そんなことはございません、御社は素晴らしい会社で・・・」とか二人目も「反対どころか、両親に大変に勧められまして、、、」など回答している。三人目は緊張のあまり「私のは、は、HAHA、は、は、はっ、ははは、す、すみません・・・」私の母と言いたかったらしい。私は口を一文字に結んで笑いをこらえた。

一番最後、8人目が私。剣道部主将だった私は、すぅっと息を吸い込み

「はい!周囲は大反対でしたっ!学生時代の先輩は日興証券で営業職をやっていますが、話を聞いたら、みんな毎日泣いているよ〜、絶対やめた方がいいよ、とおしゃっていました。しかしっ!私は、その反対を押し切って本日、ここへまいりました!」と剣道でならしたどデカイ声で回答。一瞬、シーンとした後に、面接官全員が大爆笑した。

「あなたは、心身ともにとても健康そうですね」と言われて

「はいっ!もう健康を通り越して強健です!」と言ったら、狂犬?と間違えられたのかなんなのか、また大爆笑となった。面接は3次まであったが、全て笑いを取れた。本来は内気なのだけど、日興證券の社風が私と合ったのだと思う。

笑いを取れたのが幸いしたのか、私の成績表が届く前に、倍率7倍の日興證券に就職が決まった。第一希望の業界だったので嬉しかった。(実は、IBMとかあらゆる人気企業も片っ端から受けていたが、片っ端から落ちた)

思えば剣道部時代、先輩たちと電車で帰る時に、その数駅の間に後輩らは面白い話をしないといけないという決まりがあった。話がつまらないと「次!」と言われてしまう。稽古でシゴかれて、電車でも「しゃべり」をシゴかれた毎日だった。

あまりにもそれらのシゴキが厳しくて、毎日やめたいと思っていながらも、続けた剣道部、私は就職が決まった時、剣道部にいて本当に良かったと思った。

「さぁ!留学資金を貯めるぞー」

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