小学生の問題もわからない一言も口を開かない、かつ超バカと思われていた私が、クラスで一番の満点を取った。その時のクラスのどよめきは、すごかった。
そしてクラスが終わると、驚いたことに人垣が私の机の周りにできていた。私はクラスメイトから質問責めにあっていた。どうやって勉強したのか、一緒に自分たちのスタディグループに入らないか、など、しどろもどろと答える私の英語を理解する人は少なかったが、こんな私の英語を理解しようと皆、必死だった。またアメリカ人の気質にも驚いた。結果を出した途端に、そばにきて根掘り葉掘り質問をしてくる精神が尋常じゃない。
気がつくと「彼女は今、なんて言ったんだ?」アメリカ人のクラスメートが口々に言っている。私の難解なジャパニーズイングリッシュを「僕には彼女の英語が理解できる」という秀才、ギリシャ人のディーンが通訳に立候補した。私は英語で喋っているのに、なぜか英語の通訳者がつくという不思議な現象が起こった。
「今日からスタディグループの先生になってほしい」と人だかりの中のある生徒からオファーがあった。申し訳ないが、私は英会話は捨てたのだ。人に教えるような英語など喋れるわけがない。私は「Sorry, I can’t」(ごめんなさい、行けないわ)と伝えた。日本人とならここで会話が終わる。
しかしアメリカでは違った。「なぜ?」と聞かれる。仕方なく「私は一度家に帰らなくちゃだし、車を持ってないのであなたの家までいけないの」と適当なことを言った。すると細かく時間刻みで私のスケジュールを聞いてくる。すると「OK, それなら僕が解決できる。僕が車を出してWakanaを家まで送るよ。で家での用事が済むまで外で待ってるから。そしてみんなの集まっている家まで車で乗せてくよ」と、問題解決男子が出てきた。
・・・頼む、察してくれ。行きたくないのよ。
しかし私は、そのまま問題解決男子の車に乗せられて、自宅へ。家の前で本当に待っているので、気が重いままスタディグループの友人宅へ車で向かう。到着すると、そこには7人くらいのクラスメートが。みんな君は素晴らしい!と私を大絶賛してくれて、各人がわからない問題を質問してきた。
必要に迫られて、私は喋らなくてはならなくなった。しどろもどろな英語で私が回答を話すと、案の定、誰も私の英語を理解できなかった。うっと落ち込みそうになったが、またここでギリシャ人のディーンが、「なるほど。みんな、Wakanaはこう説明したんだよ」と英語で説明し始める。
私はディーンの英語を聴きながら、そうか、そう説明したら良いのかと真剣に彼の説明を聞いた。みんなの質問は微分積分以外のプライベートな会話にも話は及んだ。私の英語を彼だけが理解し、英語でクラスメイトに通訳するという勉強会がこの日から始まった。
思いがけないクラスメートの反応であり、この通訳のおかげで、私の英語力も少しだけ進歩した。日本で高校時代、私の成績はクラスでビリだった。母がそんな私のことをよく心配していたのを想い出した。母国語ではない英語でクラスで一番になったと言ったら驚くだろうな。
その夜、母の日のカードを書いた。そして翌日、切手を貼って投函した。日本へこの手紙が届くのは一週間くらい先になる。
ママへ 母の日ありがとう。こんなに遠くへ来てしまったので、なにもあげられないけど、満点とりました。今年の母の日は、これがプレゼントです。(答案用紙同封)英語話せない私が一番になって、アメリカ人のクラスメートがひっくり返って驚いてたよ。和佳奈
2週間後、母からのエアメールが届いた。
和佳奈へ 母の日のプレゼント、ありがとう。お金で買ったものよりも、何よりも嬉しいプレゼントでした。和佳奈のお友達と同じく、和佳奈が満点取るなんて信じられないわ。ちゃんと、ごはんは食べていますか?今でも駅まで和佳奈と一緒に歩いた道にさしかかると涙がでてきてしまいます。でも夢を叶えるために頑張っているんだものね。ママも頑張らなくちゃ。健康に気をつけて頑張ってね。 ママより
母と一緒に歩いた道を思い出しながら、何回も、何回も、私は母の手紙を読み返した。
それはアメリカ留学という夢の、孤独なプリズムのなかにいた私が、ようやく見つけた小さな、しかし温かな光りだった。
●わかな語録:ビリから一番になると、人々は興味は倍増する